ottori’s blog

書きたいことを書くだけの日記。日付がタイトルなのは、その日見た夢。

一昨日、初めてラウンジと言うやつに行ってきた。結果、あまり楽しくはなかった。本当は「あまり」ではなくて、「結構」つまらなかったのだけど、そうすると関係各所に申し訳ないからそうしておく。ついてくれた女の人と連れてってくれた人に申し訳ない。その人達だけがつまらなくした原因ではなくて、自分が喋らなかったからという理由もあるし。

自分に振ってくれたことに対して答えるだけだったら、そんなに話広がらないし、ほんとにつまらない会話になってた。自分が喋ると絶対に間が生まれてた。もう、そらたくさん生まれてた。面白いこと言えないし、オチなんかないし、聞かれた事に答えるだけで精一杯だった。ほんとに自分の相手をするのはつまらなかったと思う。女の人に謝りたくなった。わけもなくすいませんが出てきそうになって、何度飲み込んだことか。

あと、自分のあまりの女性耐性の無さにビビった。目も合わせられないし、体が自然と明後日の方を向いてた。この行為が相手に与える印象が悪いことをわかって、辞めなきゃと思いながらそれが出来なかった。夜の店で働いてるような人は刺激が強過ぎるなんて言い訳もできないくらいに、頭が真っ白になってた。一生彼女出来ない人生が決定した瞬間だった。だって、女の人とまともに喋れないんだもん。ふと、どんな話なら出来るんだろうと思っても、何も思い浮かばなかったもん。斜に構えたような話とか、仕事への不満とか、誰かの悪口とか、そんな暗くて否定的な話しか思い浮かばなかった。何もこっちが話題を提供しないまでも、聞き手になれれば大丈夫だと言う人もいるだろう。果たして、相槌するだけで聞き手になったと言えるだろうか。否、それはただのAIだ。いや、Siriでももっと出来るか。女性と話すとAI以下になる男。

もう、とにかく自分のあまりのコミュニケーションの取れなさに驚いた。話すことができない。もうなんかの障害ってことにしてください。

不審者

昨日、夜中の0時から1時間ほどゲームセンターで遊んだあと、駐車場で車に乗って帰ろうとしたら職質された。何も悪いことしてないから、別に緊張とかなかったけど、警察官が3人もいたから何かあったのかと思ったらただの職質だった。これで職質は4年ぶり2回目。前の職質は財布も持たずに、お茶とスルメしか持たずに深夜の散歩してたから、警察官と少し話す程度で終わった。でも今回は、結構見られた。免許証と財布の中身と、車内まで見られた。レンチを積んでる理由まで聞かれた。タイヤ交換するんで、って言ったら納得してくれたけど。

何かあったのかと聞くと、違法な物を持っていないか調べてるみたい。深夜のゲーセンとか、確かに怪しい人いそうだし、まあわかる。しかし、職質されたときって、どこまで自分の情報を伝えていいのか分からん。やましいことが一つもないから何でも答えられるんだけど、聞かれたことにプラスして自分の情報を言って、世間話のタネになるとか愛想がよくなるようにとか色々考えてしまった。ほんとに何一つやましいことがないから、怪しい人に思われるのが嫌で、めちゃくちゃ愛想よくしてた気がする。口角上がりっぱだったもん。愛想笑いだけど。あと、車内見られるときに「見られて恥ずかしいものは乗ってませんけど」って言ったのに警察官がツッコんでくれなかったの、ちょっと悲しかった。何かスベってる感じになってて、泣きたかった。

婦警さんにゲーセンいた理由も聞かれたんだけど、音ゲーやってました、って言ったら、私苦手なんですよ、って言ってた。何かすごい申し訳なくなった。無理矢理話合わせてくれてるんだ感があったから。でも、嬉しくもあった。絶対に婦警さんは音ゲーなんてやることないだろうけど、興味を示してくれただけで嬉しかった。ほんとに自分は単純な人間だな、と思った。

職質でキャバクラ体験が出来るとは…プライベートで話す人がいないと、こんなことになっちまうんだと、自分で自分が恐ロシア。

夏も終わり

九月も終盤に差し掛かったところ、夜は少し肌寒くなってきた。この時期のにおいは、凄い寂しくなるにおいに感じる。これから来る冬に向けて、生命活動が少しずつ終わっていく気がするから。稲刈の後の野焼きの煙のにおいも、また癖になる。まだ秋にも入っていないのに、勝手に冬の気分になってしまっている。多分、蝉の声が聞こえなくなったからだと思う。これが夏=蝉の定理。蝉が死んだら夏終わり。冬なんて来なきゃいいのに。何にも楽しいことなんてないんだから。なんか気持ちも暗くなるし。日照時間も短くなるし、いいことなんて一つもない。寒いし。常夏が一番ええ。天気も気分も晴れやかになるから。東南アジアの人が陽気なのは、絶対常夏だからに決まってる。東南アジアにも陰キャっているんだろうか。いなさそう。いたとしたら、多分本物の引きこもりだろう。何かが怖いから引きこもるんじゃなくて、引きこもりたいから引きこもってるんだ、って胸張って言ってきそう。

そう、結局本人の捉え方で傍から見たら同じ引きこもりでも、その差は大きい。他人から見えてることなんて、ほんの一部だけだし、自分のこと全部が伝わってるわけじゃない。しかも、他人の受け取り方の尺度も多種多様だから、他人のことなんて気にする必要が一切ない。はずなんだけど、やっぱり気になる。ゲーセンで音ゲーやってると、他の人のレベルが気になってしまう。自分より下手だと少し嬉しくなってしまうのは紛れもない事実。だけど、そんなこと思っているのが恥ずかしい。まあ、自分より下手な人めったにいないんだけど。魔境過ぎて上手い人しかいない。何喰ったらそうなんの?ってレベル。そんな人が後ろから見てたら、めっちゃ恥ずかしい。

音ゲーとの付き合いも結構長いけど、ある程度のところまで行ったらすぐ辞めちゃう。だから、これだけは極めたって機種がない。どれも中級者くらいで終わる。成長を自分で感じれるうちは、ほんとに楽しいし無限にやってられるけど、その期間が終わって成長しなくなってからすごい詰まんなく感じてしまう。弐寺がまさにその段階。一生SAFARI難民な気がする。やっぱ自分の限界なのだろうか。でも、成長のスピードはすごく遅くなったけど、成長の実感はほんの少しあるから弐寺は続けられそう。クソ高コントローラー買っちまったし、後に引けなくなったというのが本当は正しいかも。

成長するのがやっぱモチベなのかも。仕事でもそうなんだろうなあ、と思う今日この頃。今の仕事は単純作業過ぎて、やりがいのかけらもない。ただただ時間を切り売りしてる感覚で働いてる。本当につまらない。次につながるかもしれないって言われても、今の自分は会社にとって都合よく解釈してるだけだろ、としか思わない。でも、自分一人で社会からお金を貰えることができないから、文句を言うこともできない。要するに、現状に甘んじているわけだ。自分では、何かが足りないと思っているのに。ほんとに何かが足りない。不足している。それがわからない。どんどん何かがなくなっていっている気がする。幼き頃は小さなことでも感動することが多かったのに。あの頃味わった感情はもう二度と味わえないと思うと、この先心の底から楽しいと思えることなんて一つもないだろうよ。最近は、そんなことばかり考えてすごい寂しくなる。

自己矛盾

職場へ向かう途中、窓を眺めながら自分について考えていると、自己矛盾があまりにも多すぎることに気が付いた。ほんとに多すぎる。どれくらい多いかというと、ヤマザキショップくらい。ほんとは、寂しくていろんな人と話したい。けど、話していると面倒になってくる。その上、働きたくないのに働いてる。働かないほうが、後々めんどくさくなってくるから。社会はホームレスに厳しいですから。某メンタリストが言ってたから間違いない。そんなだから、働きたくないのに機械のように働いてる。クッソ拘束時間長いのに。

面倒だからを理由に、したいことをやらないなんてとんだドアホだと自分でもわかる。わかるだけじゃ意味ないですよ、という声が聞こえる気がしますけども。そんなことをわかってるだけでも、自分は救いようがあるとか思ってる人がこれを書いてるのが滑稽ですが。他人から見たら、何を考えてその人生を歩んでるかなんてどうでもいいのである。考えてるだけで何も行動しないなら、無意味な思考だ。って考えてるのに、自分は今ある悪条件を変えるための行動を起こしていない。こんなもんで、矛盾が輪になって踊っているのである。

しかも、その矛盾が自分の中でただただ渦巻いてるだけだから質悪い。誰かに話すこともなく、ただただ考えてるだけ。話せば完全ではないと言え、何かしらの解決策は出てくるかもしれないのに。でも、自分は解決策が聞きたいのではない。誰かに話して、安心したいだけだ。同意してくれるだけでもいい。同意するだけ芯のある人生ではないのだけど、ただただ認めてほしい。社会に出たら褒めてくれる人なんて、絶対にいない。迷惑が掛からないように働いてくれれば、それで十分だから。なんて言われてるように感じる今日この頃。だから、波風立てないように働くのが一番仕事ができるやつなのだと思う。そんなようになろうとしていたら、良くも悪くもない仕事ぶりだと言われた。それって、悪いよりなのでは?と考えてみるも、所詮他人の言うことだし、本心はわからない。仕事のつながりで認められても、正直嬉しくはない。多少は嬉しいけど、不純物の混ざった誉め言葉に感じてしまう。だから、純度の高い物が欲しい。

これが所謂承認欲求ってやつですか、と。ここで一つの矛盾が生じたぁ。ほこたてぇ~。承認欲求って、ゴミじゃないですか。何の力もないただの一般人に承認されても意味ないし、そんなことをするなら自己研鑽に励めばいいのに。この思考が、自分の中には確実にある。もう、矛盾だらけです。矛も盾も信頼ある日本製品です。中国産だったら、どっちもボロボロで矛盾もないだろうに、日本に生まれてしまったばかりに…。

感動が薄れてきた

最近、感動できなくなってきた気がする。映画を見ても、観光スポットに行っても、アニメを見ても、何だか昔の方が純粋に楽しめてた気がする。

アニメとかに対しては「待てなくなった」。ちょっとでもつまらない場面があると、そこで見るのを辞める。映画でもそう。映画だとレンタルとかしたりして有料だから、もったいない精神で無理やり見るけど、やっぱ雑念が入って楽しみ切れない。最近はアニメも映画もサブスクで見るようになって、お金を使ってもったいないから見よう、とも思うけどやっぱり待つ苦痛のほうが大きい。だから、中高で見てた物の方が面白いって感じてしまう。

「昔の方が良かった」なんて言うことになるとは……

でも、変わらない感動もある。季節の変化を匂いで感じるときは、なんだか嬉しい。これは小さい時の感情とそんなに変わってない。今の夏になり始める時期の匂いは一番好きで、ずっと嗅いでいたい。田んぼに水を張り始めるときの匂いも好き。あと、夕方に聞こえるカエルの鳴き声も嫌いじゃない。真夏のセミの鳴き声もまじで好き。エアコンの効いた部屋から外に出るときのムワってした空気と匂いも良い。夏最高!

なんでこんな夏が好きなのか、多分小さい頃から夏休みに毎年キャンプ行ってたからだと思う。小学生の頃は、夏休みのキャンプがドチャクソ楽しみだった。ほんとにすんごい楽しみだった。だから、夏が大好き。

話が逸れちまった。感動ね。昔は感動しなかったけど、今は感動するものもある。空想上のものじゃないこと、例えばドキュメンタリーだったり、家族の話とか、誰々が亡くなったとか、パラリンピックとか、涙脆くなってる事は違いない。

今、ふと気がついた。感動が少なくなったわけじゃなく、楽しさが少なくなってることに。むしろ、感動して涙が出る機会は増えてたわ。長く生きて色々なことを勉強したら、純粋に楽しむことは出来なくなってしまうんだなぁ。その代わり、色んなことを経験を照らし合わせて想像できるようになったから、共感する力が増えただけなのかも。

何に楽しさを感じるかなんて、自分が一番わかってなきゃいかんよな。そんなもんでもないのか。もうわからん。楽しいことしたいなぁ。

うつ病は甘えなのか

なんだかんだうつ病は甘えなんじゃないだろうか、という疑念が捨てきれない。学術的にうつ病の原因になるであろうことは証明されてきているし、それをわかった上で対策を立てて実行すれば、うつ病は治るかもしれない。そこまでわかってて、なぜ改善に向かって行動をしない?結局、本人の治したいという意思が無ければ、原因が分かったところで意味がない。

本当に当たり前で何事にも通ずるはずなのに、こんな事今更になってわかるのかよって感じだけど。「うつ病は甘え」なんじゃなくて、「うつ病をそのままにしておくことが甘え」という認識にこれからは変わっていくのだと思う。でも、それは本当に酷な話だと思う。確実に一人の力で治すのは無理に近い。そもそも、うつ病の人は自覚がないから。

うつ病で悩んでいる人が多ければ多いほど、うつ病の人は追い込まれる。周りの人のほうが辛いから、自分なんてまだまだ甘えてるだけだ、って考えるから。そうしてうつ病の兆候が出てるのに無視して、見過ごしてしまう。

で、今の自分はどうなのかってところ。正直、仕事にいきたくないし、ずっと寝てたいし、人と関わりたくないし、何をするにもめんどくさい、好きなことだけやっていたい。この気持ちは、うつ病のせいなのか、それともただの性格なのか、よくわからん。自分が何をしたいのか、ここ数年はずっとわからない。そんな中、一回だけどうしようもなくなってベルトを首に掛けたとき、いつでも死のうと思えば死ねるんだって感じて、すごい気が楽になった。それ以降は、何も考えずに目の前のことだけやるようにしてた。

でも、最近またおかしくなってきた。車の運転中に赤信号で止まった時、2階建ての建物を見てふとあそこから飛び降りたら死ねるだろうな、と思ってしまった。

○ぬ勇気もないくせに、可能性ほのめかしてんじゃねえよ。構ってちゃんかよ。

自分は何者?

ネットでの誹謗中傷が問題になっている。それに限った話ではなく、昔からそれに似たようなことはあったに違いない。それがネットという多数の目に晒されて、残る状態になったことで表面化してきたのだと思う。モンペとか、クレーマーとか、昔からいた事は間違いない。

そんな人がどういう感情で文句を言うのか、自分には理解できない時がある。自分では、ある時に文句を言いたくなる。それはお金が関係してくるときだ。そんなこと言ったら大体の事柄がそうなってくると思うけど、文句を言う相手が直接、お金を払ってるサービスを提供しているのか、とか、いろんな違いがある。文句を言う相手が一人でサービスを提供しているのなら、文句を言ってサービスの質が変わる可能性が高いだろう。文句と言っても大前提として、根拠のあるものでなければいけない。それが合理的なものであれば、文句を言って、サービスを向上させることにつながると予測できるから、まあわかる。じゃあ、コンビニの店員とかに直接クレームを入れればサービスの質が上がるかと言えば、違うと思う。まあ、店員が醸し出す雰囲気でなんとなく良い店とか悪い店決めてることもあるから、絶対に違うとも言い切れないのがつらいけど。コンビニに限らないけど、商品を売ってるなら、その商品があくまでメインのもので、それ以外のすべてのものは付随したものだから、そもそもなんの期待もしないのが当たり前だと思う。つまり、何に対してお金を払っているのかわかっていれば、店員にクレームなどつける気にもならないはず。

個人に留まるサービスでは文句をつける合理性もわかるが、現代ではほとんどが企業としてのサービスや製品を提供しているから、社内でカスタマーサポートの部門を作ることが当たり前になってきた。こうなってくると、もうサービスを提供する人と文句を言われる人が別人だし、距離も遠くなっているし、一個人の意見でサービスが変わることはそうそうないだろう。これが理解できていればクレームなど言う気にもならない。どうしてもと言うなら、根拠があって合理的でコストがかからない方法を提案してあげればいい。そんなもんあるわけないけど。あったら、それが使われてるわって話。

カスタマーサポートでは、ただの悪口を言われることもあると思う。「そんなこと言われても、、、」って思いながら対応してるんだろうけど、ゴミカスだからしょうがないよね、くらいに思って欲しい。相談する側は、基本的には助けてほしいだけだから。

政治家とか、公務員とか、税金で給料もらってる人とかは難しいよねぇ。叩かれやすい対象なのは確かだなぁ。まあ、日本にいて、公的なものの恩恵が受けられるのが当たり前だと思ってしまうから駄目なんだろうね。あまりに日常過ぎて、何に対してお金を払ってるのかがわからないんだろうね。実際、自分も正直なところよくわかってない。ただ、わからないからって他人を責め立てるのはバカ。調べた上でおかしいなら、そこで始めて文句が言える。汚職とか、賄賂とか、横領とかそういう使われ方をしてるなら叩かれてもしょうがないよね。政治家とかはそんなんばっかだろうけど。尻尾を掴まれなければ問題ないって考える人もいるだろうし。

あとは、なんとなく嫌いな人を個人的な感情だけで叩く人。そんな人、論外だけどね。まず、自分から関わらなければいいだけだから。簡単。まあ、どうしても嫌いであることを周りに伝えたいのであれば、相手も感情のある人間なんだから、伝わらないようにしてあげろ。言い方とか、気を配れ。そんなこと考えられるかはわからんけど。でも、基本的には嫌いになってもわざわざ誰かに伝えることはしないほうがいいに決まってる。

 

なんか、否定してばっかになっちゃった。こんなこと書いてるとなんとなく暗くなるよね。希望は無いんだ、みたいな。合理的なことしか受け入れられないみたいな。心がどこにもないんだよな。