ottori’s blog

書きたいことを書くだけの日記。日付がタイトルなのは、その日見た夢。

いつかは報われる

見すぼらしい生き方をしてる自分が何もしようとしないのは、きっといつかは報われる日が来るのだと、根拠もなくそう思ってるからだと思った。何処かから救いの手が差し伸べられて、現状がより良くなるものだと漠然と感じている。年齢的にもまだ未来があると、自他ともにそういう認識であれば、現状にあぐらをかいてしまう。まだまだ余裕あるでしょ、とか思ってたら同い年の人とすんごい差をつけられて時すでに遅し。だから、久しぶりに会う同期とかまじで会いたくない。あまりの差に絶望しそう。

今やってることに対して、実感が全くない。例えば、車を買ったとする。高額を支払って、書類上は自分の所有物になっても、なんだかあまりに手に余るような気がして実感がない。道具として時間の制限もなく、使いたいときに使えるだけでそれ以上の愛着とか湧かないし、客観的に見て自分が所有していることが信じられない。これと同じような感じで仕事を始めたから、仕事の内容については頭に入るけど、仕事と自分の関係になると何にも話せない。何の実感もなくただ給料を見返りに最低限の仕事をしてるだけだから、やる気も起きない。

実感というか、現実感というか、今目の前で起きてる事だったり取り組んでいる事が自分の一挙手一投足で直ぐに変わるわけでも無いから、こんなフワフワとした感情になっているのかな。地に足が付いていない。なんの目的もない。自分が死んで悲しむ人が居なくなるまで生きればいいや、と生きる目的がどんどん下方修正されてきている。それさえもなんか現実感が湧かない。なんか自分が生きているのかも曖昧になって来た。スッと魂が入れ替わっても何ら問題ないだろうな。体が不自由な人が何の障害もない人に混ざって生きているのを見ていると、体だけは不自由ない自分の体と交換してみたら自分の思考はどうなるのだろうか。三日くらいで不貞腐れて何もやらない気しかしない。そう考えたら、障害を持ちながら生きてる人を一番尊敬するべき。

何の話やねん。魂の入れ替わりとか何万回擦られたネタだよ。でも、やっぱ人の立場になってみないと人と色んな感情を共有することなんて出来ない。高校生くらいで見た人類補完計画とか、まじで何いってんだコイツって思ってたけど、自分を理解してほしい気持ちと他人を理解したい気持ちは結構大きい。一つになろうとすることはやっぱ人間である前に動物としての本能なのかもしれない。ただの液体になりてー。って飛躍した思考になるのは、あまりに不器用すぎて、体や言葉を使った意思疎通に難があるからだな。普通の人は、コミュニケーションでその気持ちを解消出来るんだろうな。それとも、皆溜め込んでて我慢してるだけなのかね。どうなんだろね。なんだか、もっと具体的なことを考えてたらそんな事思わないのか。ただの考え過ぎだな。頭でっかちだよほんと。