ottori’s blog

書きたいことを書くだけの日記。日付がタイトルなのは、その日見た夢。

夏も終わり

九月も終盤に差し掛かったところ、夜は少し肌寒くなってきた。この時期のにおいは、凄い寂しくなるにおいに感じる。これから来る冬に向けて、生命活動が少しずつ終わっていく気がするから。稲刈の後の野焼きの煙のにおいも、また癖になる。まだ秋にも入っていないのに、勝手に冬の気分になってしまっている。多分、蝉の声が聞こえなくなったからだと思う。これが夏=蝉の定理。蝉が死んだら夏終わり。冬なんて来なきゃいいのに。何にも楽しいことなんてないんだから。なんか気持ちも暗くなるし。日照時間も短くなるし、いいことなんて一つもない。寒いし。常夏が一番ええ。天気も気分も晴れやかになるから。東南アジアの人が陽気なのは、絶対常夏だからに決まってる。東南アジアにも陰キャっているんだろうか。いなさそう。いたとしたら、多分本物の引きこもりだろう。何かが怖いから引きこもるんじゃなくて、引きこもりたいから引きこもってるんだ、って胸張って言ってきそう。

そう、結局本人の捉え方で傍から見たら同じ引きこもりでも、その差は大きい。他人から見えてることなんて、ほんの一部だけだし、自分のこと全部が伝わってるわけじゃない。しかも、他人の受け取り方の尺度も多種多様だから、他人のことなんて気にする必要が一切ない。はずなんだけど、やっぱり気になる。ゲーセンで音ゲーやってると、他の人のレベルが気になってしまう。自分より下手だと少し嬉しくなってしまうのは紛れもない事実。だけど、そんなこと思っているのが恥ずかしい。まあ、自分より下手な人めったにいないんだけど。魔境過ぎて上手い人しかいない。何喰ったらそうなんの?ってレベル。そんな人が後ろから見てたら、めっちゃ恥ずかしい。

音ゲーとの付き合いも結構長いけど、ある程度のところまで行ったらすぐ辞めちゃう。だから、これだけは極めたって機種がない。どれも中級者くらいで終わる。成長を自分で感じれるうちは、ほんとに楽しいし無限にやってられるけど、その期間が終わって成長しなくなってからすごい詰まんなく感じてしまう。弐寺がまさにその段階。一生SAFARI難民な気がする。やっぱ自分の限界なのだろうか。でも、成長のスピードはすごく遅くなったけど、成長の実感はほんの少しあるから弐寺は続けられそう。クソ高コントローラー買っちまったし、後に引けなくなったというのが本当は正しいかも。

成長するのがやっぱモチベなのかも。仕事でもそうなんだろうなあ、と思う今日この頃。今の仕事は単純作業過ぎて、やりがいのかけらもない。ただただ時間を切り売りしてる感覚で働いてる。本当につまらない。次につながるかもしれないって言われても、今の自分は会社にとって都合よく解釈してるだけだろ、としか思わない。でも、自分一人で社会からお金を貰えることができないから、文句を言うこともできない。要するに、現状に甘んじているわけだ。自分では、何かが足りないと思っているのに。ほんとに何かが足りない。不足している。それがわからない。どんどん何かがなくなっていっている気がする。幼き頃は小さなことでも感動することが多かったのに。あの頃味わった感情はもう二度と味わえないと思うと、この先心の底から楽しいと思えることなんて一つもないだろうよ。最近は、そんなことばかり考えてすごい寂しくなる。